中間島の人々(外的コントロール島と選択理論島の間)

「はじめての選択理論 人間関係をしなやかにするたったひとつのルール」(渡邊奈津子著、ディスカバー・トゥエンティワン)は、選択理論の全体像を非常に分かりやすく記述した、初心者向けの市販テキストにあたるものとしては、はじめてともいえる本であり、おもしろく、興味深く、たいへん参考になり、職場研修や勉強会のテキストとしても、使いやすい。

 

この本では、選択理論島(アイランド)と外的コントロール島というたとえが用いられており、たいへんわかりやすく書かれている。

 

選択理論・RTの考え方では、「自分は人を変えることができる」と考える人は、外的コントロール心理学を採用しており、このような人は、外的コントロールを手放し、「人を変えることはできない、変えられるのは自分の行動だけである」という選択理論・RTの考え方を取り入れる必要がある、としている。

 

ただ、選択理論が、外的コントロール(悪)と内的コントロール(善)、ボスマネジメント(悪)とリードマネジメント(善)というように、西洋的な、二元論的な切り分け方をしており、この本でも、それをはっきり際立たせるために、その中間に位置する人や、考え方、領域など、いわばグレーゾーンをどう考えればよいのかがわかりにくい。

 

それはそれとして、この本を読むことにより、選択理論について、以前から気になっていた、いくつかの本質的な疑問が明確になってきて、それらについて、どう考えたらよいのかを自問自答することができ、自分なりの答えをあれこれ考えてみる機会が得られた。その意味でも、大変役立つ本であった。

 

ここで「中間島の人々」とは、他者は外的コントロールしたい、自分の行動は内的コントロールしているという、多くの人々、をさすこととする。これらの人々は、ときどき、他者に対して強い外的コントロールをしては人間関係に失敗し、他者から強い外的コントロールをされては、傷ついたり、つらい思いをしている。

 

そもそも、私たちはみんな、自由の欲求を持っているので、自分の行動は自分で選択したいと考え、「自分の行動は自分で選択している」。この点からすると、ほとんどの人は、選択理論・RTの立場から見て、内的コントロールを行っていることになる。そして、相手から行動を強制されることを嫌う。

 

その一方で、私たちは、力の欲求を持っており、「人を自分の思い通りに変えたい、動かしたい」と思っている。そして、それを実行するために、人に対して外的コントロールしようとしたり、影響力のある言動をしたりしている。

 

特に、「相手を変えようとして、あるいは、相手に期待する行動をとってもらおうとして、外的コントロールや影響力のある言動をしたが、相手が、思うように行動しない場合」には、より強い外的コントロールを行うことで、相手を動かそうとしがちである。

 

まとめれば、「私たちの多くは、自由の欲求から、自分の行動は自分で選択している。その一方で、力の欲求から、相手を思い通りに変えたいと思っている」。

 

つまり、「自分の行動には選択理論を採用し、相手に対しては外的コントロールや影響力のある言動を使いがちである」、ということが、多いように思われる。

 

このように、多くの人は、例えば、「自分の行動は自分で選択している、一方、他人は思い通りに変えられると考えている」、「いつも強い外的コントロールしているわけではないが、たまにしてしまうことがある」、「相手に期待通りに行動してほしいと、影響力のある言動をいつもしている」というような、グレーゾーンにおり、このようなグレーゾーンの人々について、どう考えたらよいのか、というのが、繰り返しになるが、ここでの問題意識である。

 

また、これらの人々にとっては、「内的コントロールに従って行っている自分の行動」が、同時に「相手に対する外的コントロールの行為」であることも、普通にありうるといえよう。

 

また、外的コントロール島の住民といえども、自分の四六時中の行動を外側からコントロールされているとは考えていないであろうし、自分一人のときや、対人関係を気にしなくてもよいときは、自分の行動は自分が選択していると考えているのではないか。

 

選択理論・RTを学んでいない人は、「自分のことでは、自分の行動は自分で選択している」ということと、「相手のことについては、自分は相手を思うように変えるために、外的コントロールや影響力を行使する言動をする」を、一つのセットとして考えるのではなく、切り離して、別々のことと考えているか、又は、日常生活では、これらのことをまったく意識していない、ということが言えるであろう。

 

そして、知らず知らずに、人に対して強い外的コントロールを行い、その結果、外的コントロ-ルされた相手は、欲求を大きく阻害される為、外的コントロールをする相手との関係を遠ざけたいと考える。

 

しかし、関係を遠ざけることができない場合には、それが相手にとっては、感情的な悩みや生理反応の悩みなど、心理的な問題を引き起こすことにつながる、ということである。

 

一方、私たちは、通常は、「自分の行動は自分で選択する」ということで自由の欲求を満たしているが、他者から強い外的コントロール行為をされると、「自分の行動を自分で選択している」ということを忘れ、「自分は相手によって行動を強制されている、自分は、相手が思うように行動を変えさせられている」と、外的コントロールの被害者であるように受け止めがちになる、ということもいえよう。

 

このような現状を前提として、この本を読んでいると、二元論としての説明が鮮やかすぎて、「ついていける部分」と「ついていけないと感じる部分」が出てくる。

 

選択理論」といいながら、「ここは必ず二者択一で答えを選択しなければなりません」と決めつけられているような感じになり、それができないと、「選択理論島の住人とは言えません」と言われているように感じられる。

 

そして、そのように言われた人は、「ついていけない感じ」や「理解できない部分」を振り切ってでも、とにかく、「先生から教えられた答えを、正解として丸のみしないと、選択理論島の住人として認められないかもしれない」という恐れや不安から、「ここは丸のみするしかない」と、選択の自由なく、考え方や理論を丸のみする、ということも生じてくるのではないだろうか。

 

選択理論は、個人が、人々や社会と折り合って生きていく際の、お互いが幸せに生きていく際の哲学、生き方として価値があるものと考える。個人が幸せに生きていく上での方法としては、非常に優れたものであると思う。

 

一方、選択理論を「人々」、「村」、「社会」におけるルールとするときには、個人に対してしばりをかけるものともなりうる。

 

したがって、個人としては、選択理論を、方法、手段として、使えるところを採用し、目的を達成できればよいと考える(つまり、自分用に、使い勝手が良いようにカスタマイズして使えばいいのではないか)。

 

すべてのものには、プラスとマイナス、メリットとデメリットなどの両面があり、選択理論だけは例外的に絶対だ、ということではないだろう。

 

私個人としては、そのような柔軟な態度で、選択してもいいし、しなくてもいい、というのが、選択理論という名称に、ふさわしいのではないかと考える。