「リクエストする」と「影響力の行使」について

この本では、別の問いかけとして、「相手に対する期待」が外的コントロールに該当するか否かについて、

 

「期待する」ということを細分化するなら、

①「そうなってくれたらいいなあ」と純粋に期待するだけのレベル

②「そうならなくてはならない」と自分の期待を押し付けるレベル

に分けられます(「人間関係をしなやかにするたった一つのルール」48頁)

とし、読者に対して、上記のいずれに該当するかと問いかけているが、

 

私の場合の答えは、どうも、①では弱すぎるように思われ、かといって、②まではいかない、というものであるように思われる。

 

つまり、①と②の二者択一では難しいのではないか、①と②の間に幅があるのではないかということである。

 

たとえば、「そうなってほしいと期待し、相手が期待通りに行動するように、影響力のある言動を行う」ということは、外的コントロールに当たるのだろうか。

 

「相手に心からそうなってほしいと期待し、相手が期待通りに行動するように、相手の話をよく聞く一方で、力強く説得したり、根気よく説得したりする」ことは、どう考えればいいのだろうか、という疑問がわいてくる。

 

これはまさに、「意見の違いを調整すること」であり、「意見の違いについて相手と交渉すること」に該当するのではないか。

 

その結果、「私の意見が通らず、相手の意見が通ること」もあるし、「私の意見が通り、相手が変わること」もある。また、「両者が歩み寄って、それぞれ変わること」も、「全く別の第3の方法」で合意することもあろう。

 

このように考えると、本の二択質問の「『そうなってくれたらいいなあ』と純粋に期待するだけのレベル」を、「外的コントロールにならない基準」とするのでは、あまりに、「外的コントロール」という言葉を厳しく(広く)捉えすぎ、現実的ではないように思われる。

 

現実的な方法としては、アサーティブの立場をとり、私メッセージを使って、「相手に変わってほしい」という自分の期待を相手に表明するというやり方があろう。

 

期待する方も、期待される方も、自分の考えを相手に理解してもらえるよう、相手にわかりやすく説明し、説得する、ということが大事なのではないかと考える。

 

そして、お互いに、相手に対する期待を出し合い、相手の考えに応じて、妥協したり、意見を修正したりして、合意できるように努める、しかし、最終的に折り合えない場合には、相手の選択を認める、ということが、社会で、他者と共存していくには必要なことと考える。

 

このような他者に対する影響力の及ぼし合いは、それが強めに出ると、外的コントロールに近いか、外的コントロールそのものであるようにも思われるが、相手と折り合えそうにない場合には、最終的には、相手との良好な関係を維持するため、相手の選択にゆだねる、ということが、今の社会でも、多く行われている習慣であり、選択理論から見ても、「意見の違いの調整」、「意見の違いについての交渉」の範囲内のことであるように思われる。

 

選択理論を「自分個人の領域」で、自己完結的に活用する場合には、①「そうなってくれたらいいなあ」と純粋に期待するだけのレベル、にとどまることも、個人の選択であり、差し支えないことと思われる。

 

一方、家族や職場、学校生活では、他者との関係において、「自分に課せられた役割を果たすべき必要がある場合」や、「相手に対する期待をできるだけ実現したい場合」がいくつもあり、「自分と他者が関わりあう社会生活」において選択理論を活用していく場合には、影響力のある言動を行使しあい、調整し、交渉して、折り合えるように努めること、が相当程度必要であり、このことを、相手との関係を壊すことなくやりとげることが、求められていることではないか。

 

リードマネジメントにより、「自分が意図することを、人を介して行うこと」とは、まさに上記のような意見の調整や交渉のことを言うのではないかと考える。

 

そして、このような場合に、強制や批判などの強い外的コントロールを使って、相手との関係を断絶させてしまうということが、往々にして生じているが、この人間関係の悪化の問題を防ぐために、選択理論の知恵として、「相手との関係を悪化させる強い外的コントロールを使ってはならない」、「相手の選択を重視する」等を実践すればよいのではないかと考える。