「強い外的コントロール」が問題なのではないか

中間島では、外的コントロールの行為を身近な人に対して行っている人は多い。

 

このような外的コントロールの行為をすることも、民主主義の世の中では、民法の不法行為に該当したり、犯罪に該当しない限り、法で認められた「個人の自由」の範囲内のことであり、選択理論を学んでいない多くの人々にとっては、言うことを聞かない生徒や子供に対して、外的コントロールを使って、相手を変えようとすること(外的コントロール心理学)は、常識として使っているものであるといえよう。

 

一方で、私たちの幸・不幸を左右する人間関係は、「身近な人どうしの間で形成されるもの」であり、「身近な人間関係」を悪化させる外的コントロール、特に、私たちにとって、長期的な心理の問題を引き起こす原因となる「身近な大切な人間関係」を悪化させるような外的コントロールは問題である。

 

例として、「親、教師、上司による外的コントロール行為」で考えてみたい。

 

「親、教師、上司」が、「私の子」「私の生徒」「私の部下」に対して、「しつける、勉強させる、仕事をさせる」という外的コントロールの行為を行う場合があるが、「親、教師、上司」が、「子、生徒、部下」に対して外的コントロールを行う理由としては、「一人前の子に育てたいという親の役割、責任を果たす」、「教育して賢い生徒に育てたいという教師の役割、責任を果たす」「仕事がよくできる社員に育てたいという上司の役割、責任を果たす」という意識があるように思う。

 

自分の行為が外的コントロールであるかどうか、相手との関係を遠ざけるかどうかということを意識することもなく、「これだけは伝えなければならない」、「相手がどう思おうと、自分が悪く思われようと、伝えなければならない」と思って、強い調子で伝えようとするのである。

 

しかしながら、「親、教師、上司」が、「私の子」「私の生徒」「私の部下」に対して、「しつける、勉強させる、仕事をさせる」ために、「批判する、相手のせいだと責める、文句を言う、がみがみ言う、脅す、罰する、褒美で釣る」という行動を、一日に何度も行ったり、連日行ったり、ということになれば、「子、生徒、部下」の側としては、「愛・所属の欲求」「力の欲求」「自由の欲求」「楽しみの欲求」を、大きく、しかも、継続的に阻害されることになり、我慢の限界を超えると、「反発する、無視する、逃げる、関係を断つ」という行動につながっていく。

 

そうなると、「親、教師、上司」と「子、生徒、部下」の人間関係が、お互いに不満足なものとなり、お互いに、いずれの欲求も満たされず、幸せが減り、不幸が増えるという状態になる。そして、いずれの方からも、心理的な問題を抱える人が出てくる。

 

このように、自分に所有意識がある身近な人との関係において、所有されている側の人々(子供、生徒、従業員など)に対して、所有意識を持っている人々(親、先生、経営者など)が、人間関係を悪化させる外的コントロールの行為をしやすい。

 

そうすると、される側の人は、欲求を大きく阻害されて、人間関係を遠ざけようとする、ということが生じる。

 

一方、相手から外的コントロールの行為や、影響力のある言動をされた場合でも、受け止める自分の方では、「自分の行動は自分で選択している」という考え方がなされているのであれば、内的コントロールに基づいて行動しているということであり、本人は選択理論を採用しているので、相手が外的コントロールをしても、本人はその影響を受けていないため、選択理論・RT的には問題がない。

 

ただし、この場合も、相手から外的コントロールを受けた場合に、人間関係の悪化を招くという意味では、問題があることになろう。

 

また、「子、生徒、部下」の側としては、受ける外的コントロールの程度が軽いものであったり、回数が少なかったり、内容が的を得ていたり、ということであれば、それだけで相手との関係を遠ざけたいとまでは思わないであろう。

 

逆に、「親、教師、上司」に「愛・所属の欲求」を満たしてもらったり、自分の「力の欲求」を充たすことができたりということもあろう。

 

このように考えると、「外的コントロールを排除すべし」の意識が強すぎると、自由なコミュニケーションが減るのではないか、外的コントロール心理学に立って「外的コントロールは一切すべきでない」ということになると、相手の欲求を充足する「外からの影響力の行使」のようなものまでが否定されることになるのではないかと思われる。

 

私たちは、「自分の行動は自分が選択している」一方で、相手に対しては「外的コントロール・影響力のある言動をしている」ということが多い。

 

私たちが、相手に対して、自分の思うように行動してほしいと思うのは当然のことであり、自分の行う外的コントロールや影響力のある言動に対して、相手が、主体的に自らの内的コントロールによって行動を選択する限り、自分の言動が、外的コントロールに当たるかどうかを気にしすぎる必要はないのではないかと考える。

 

また、相手の行動が自分にとって強い外的コントロールとして感じられ、相手との関係を遠ざけたいと思うか否かは、「自分と相手との人間関係の状況、信頼関係の有無」、外的コントロールや影響力のある言動を行った前後における説明ぶりや、その後のフォローの有無、相手の選択権に対する配慮の有無」などによって変わってくるものである。