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前提としての「個人の主体性と自己責任」

「相手を変えることはできない」よりも「相手の主体性を認める」が先に来るのではないか、というのが、ここでの問題意識である。

 

選択理論的では、「相手を変えることはできない」とされるが、その理由として、「人の脳の働きと行動のシステム」から考えると「人は自分の行動を、自分でコントロールしている」、だから、「人は、他者の行動をコントロールすることはできない」、「自分の行動をコントロールできるのは自分だけである」という考え方になる。

 

私たちは、自分の子、部下、生徒など、身近な人に対して、「自分の所有物」と見てしまいがちなところがあり、相手を自分の思いどおりにコントロールしようとする。

 

そして、このときには、意識しているか、していないか、はともかく、「相手を思い通りにコントロールしたい」、「相手を思い通りにコントロールできる」という考えが、頭のどこかにあるからこそ、そのように行動するということが言えよう。

 

そして、「人は、自分の欲求充足のために行動する」が、「自分の欲求充足のために、人を外的コントロールしようとすると、それは、その相手の力の欲求や自由の欲求を阻害するので、両者の関係の悪化を招く」。

 

従って、「人間関係の悪化を招かない為に(又は人間関係を改善するために)、相手に対して、人間関係の悪化を招くような外的コントロールをしてはならない(やめなければならない)」

 

「相手の行動は、相手自身がコントロールしている。だから、自分は相手の行動をコントロールすることはできない」、言い換えれば、「自分がコントロールできるのは、自分の行動だけである」ということであると思われる。

 

しかしながら、「相手は、別の人間だから、自分がコントロールすることはできない」ということの前に、相手も自分と同じく、1人の人であり、1人の人として尊重しなければならない」という「自分の主体性を尊重するのと同様に、相手の主体性を認めよ」ということが来るのではないだろうか。

 

このような場合、根っこのところで、「相手を1人の人間として尊重し、相手の主体性を認めている」ということがあれば、強制的に自分の思いどおりに相手を変えようとは思わないであろうし、最終的には相手の選択を尊重するであろう。つまり、

 

・「相手を1人の人として尊重していない」から「相手を外的コントロールしようとする」

 

・「相手に対して所有者意識を持っている」から「相手を外的コントロールしようとする」

 

・「相手を外的コントロールしようとするな」ではなく、「相手を1人の人として尊重せよ」、「お互いの主体性を尊重せよ」ということが先に来るべきではないか。

 

「相手を1人の人として尊重する」、「お互いの主体性を尊重する」ということができているかぎり、相手に対して影響力のある言動をしても、それは外的コントロールにはならない、といえよう。

 

そうすれば、人間関係が断絶するというところまでには至らないであろう。

 

「相手を1人の人間として尊重し、相手の主体性を認める」ということは、相手の力の欲求や自由の欲求を充たすものでもあり、この点からも、人間な関係の悪化を伴うものではないといえよう。

 

そうすると、「相手に対して外的コントロールをしてはならない」とするより以前に、「相手を1人の人間として尊重し、相手の主体性を認めなければならない」という考え方をすべきであるように思われる。

 

そして、ここでいえるのは、相手に対して影響力のある言動を行っていく場合には、「相手を1人の人間として尊重し、相手の主体性を認める」ことを前提としなければならない。

 

この「相手を1人の人間として尊重し、相手の主体性を認める」ということができていれば、「外的コントロールを使って、相手を思い通りに変えよう」という行動もとらないように思われる。

 

一方、それがなく、「相手を自分の所有物であるという意識」を持っていると、自分の「影響力のある言動」は、「相手との関係を悪化させる外的コントロールの行為」になる恐れがある。

 

このように考えてくると、「相手に影響力のある言動を行う場合」と「相手に外的コントロールを行う場合」の違いがどこにあるかというと、「相手を1人の人間として尊重し、相手の主体性を認めているか、いないか」の違いであるようにも思われる。

 

この「相手の主体性を尊重せよ」ということをいわず、「相手に対して外的コントロールするな」とだけいうと、「相手を1人の人として尊重する」、「お互いの主体性を尊重する」ということができていても、「行為だけを見て、外的コントロールだ」と判断してしまうことになり、「お互いを尊重し合った、影響力の及ぼし合い」も、外的コントロールとして、排除すべきという議論になってしまうのではないか。

 

つまり、自分が、外的コントロールにならない程度に、相手に対して、影響力のある言動をしているつもりでも、根底に、「相手を1人の人間として尊重し、相手の主体性を認める」という気持ちがないと、その影響力のある言動は、相手を思い通りに変えようという、外的コントロールの行為になっていくのではないかと考える。

 

要するに、ここでの問題は、「外的コントロールで相手を行動させようとすること」というより、「自分が他責的に行動するか、自律的に行動するかの違い」であるともいえよう。

 

したがって、次のようにまとめられよう。

 

人間関係では、

①人間関係を悪化させる外的コントロールを使わない、

②相手の内的コントロールを促す支援をする。

 

一方、自分の行動をセルフコントロールすることにおいては、

①自分は内的コントロールで自律的に行動する、

②相手の外的コントロールをやりすごす、

ということを目指すべきである。

 

とはいえ、「相手を1人の人として尊重する」ということは、「個人の尊重」ということが、憲法でも規定され、民主社会では、当然とされてきているにもかかわらず、私たちの身近な生活では、この意識が、私たちの間に十分身についているとは言えない。

 

私たちが、他者に対して外的コントロールしようとするのは、自分の基本的欲求を満たそうとするために行うものであり、私たちは、自分の欲求が十分に充足されていない状態では、不満が募るばかりであり、代わりの欲求充足の方法がわからない場合には、他者に対する外的コントロールで満たそうとするであろう。

 

したがって、「他者を外的コントロールしたい欲求」が、「相手を1人の人として尊重する」という意識を打ち負かす、ということも往々にしてあることであろう。

 

特に、「相手が自分の子供で、一人前に育てなければならない場合」、「自分が監督する役割がある部下」、「自分が教育指導する役割がある生徒の場合」などには、「相手を1人の人として尊重する意識」よりも、「自分には相手を指導し、教育し、育てる役割があり、相手を立派な○○に変えなければならない」という意識が勝ってしまいがちになるということであろう。

 

また、その一方で、「相手を1人の人として尊重する」ことの前提として、「自分自身を1人の人として尊重する」という自己尊重、自己信頼がないと、やはり、底の浅い、他者尊重になるかもしれない。

 

このように考えてくると、「自分と他者をそれぞれ一人の人として尊重すべきである」ということをひとまず置いて、選択理論が説くように、行動のレベルで、とにかく、「相手に対して、人間関係を壊すような、強い外的コントロールをしてはならない」ということの実践を目指す、というやり方も、実際的で、有効な方法として、当然あるであろう。

 

しかしながら、行為レベルで、「相手に対して外的コントロールしない」ということが守られたとしても、「相手を1人の人として尊重する」、「自分を1人の人として尊重する」ということが欠けていれば、やはり、底の浅い、うわべの対応となるおそれがある。