「いじめる側」と「いじめられる側」(いじめと選択理論について)

暴言で人を傷つける人がいる。自分の気に入らない点を、相手を悪者にしてあげつらい、暴言を吐いてしまう。自分の感情を抑えきれず、切れてしまう人もいる。

 

一方、暴言を吐かれた相手は、本当のことを言われた、自分に原因がある、自分がだめなのだと思って、落ち込んでしまう。

 

攻撃された人が複数いると、「自分だけではない」、「他の人も同じ目に遭っている」と言って、落ち込みを防ぐことができる。

 

しかし、自分一人だけが攻撃されているようなときは、自分を支えきれないこともあるだろう。

 

また、いじめたり、暴言を吐いたりする人は、特定の人をターゲットにする。他の人には笑顔で愛想がいいのに、特定の人にだけつらく当たるということも多い。

 

そのようなターゲットにされた人は、他の人と仲良くしているのを見て、やっぱり自分に原因があるのかなと思ってしまう。

 

また、いじめる人の友人は、いじめる人に好意を持つので、やはり、いじめのターゲットにされた人に問題があると思ってしまうということもある。

 

いじめる人の力が強い場合には、自分がいじめられる対象になりたくないばかりに、その人に同調するということもある。

 

いじめのターゲットになった人は、このような全体像をつかみ、分析することで自分の対処の仕方を考える(たとえば、相手や周りの人、状況を客観的に把握し、自分だけを悪者にしない、大人の対応をして、相手にしない、いちいち反応しない、別のところで楽しい世界を持つ、など)ことができればよいのだが、いったん、気分が落ち込むと、視野もせまくなってきて、悪循環に落ち込む。

 

特に、小中高校などの学校は閉じられた社会で、子供には逃げ場が少ない。この意味では、不登校も逃げ場の一つと言えよう。少人数の職場や、家庭なども、閉じられた社会ということでは、被害者にとっては逃げ場が少ないといえよう。

 

わかる相手であれば話し合って対処するというやり方もあるが、相手は、いじめることによって、ゆがんだ形で欲求を満たしている。

 

「そのような境遇から遠ざかる」、「他者に救いを求める」、「相手と距離を置く」、「冷却時間を持つ」、「逃げるが勝ち」、ということもある。

 

こちらが反応するから、相手もいじめがいがある。自分に相手を変える力があれば別であるが、「人を自分の思い通りにコントロールすることはできない」と考える方が無難である。

 

「人は変えられる」と思って正攻法で向かっていくと、相手は攻撃されたと受け取って、より深刻化する可能性もある。

 

自分がいいと思ってしたことが、相手にとっては攻撃されたと受け取られることもよくあることだ。自分の方では、相手の誤解を防ぎきれない。

 

自分も相手もコミュニケーションが上手な場合は、お互いの考え方を上手に伝えあうことができるかもしれない。

 

しかし、どちらかが、あるいは双方ともに、コミュニケーションが下手であれば、また、自分の考え方を伝えても、それが相手には伝わらず、変な方に誤解され、こじれていく可能性もある。世の中には、偏ったものの見方をしがちな人もいる。

 

とにかくこの世においては、「十人十色」であり、「他人とはストレスの多い存在」であり、「人付き合いは疲れる」ものである。

 

そんな中でカウンセリングやコミュニケーションの学習をしていれば、いくつもの手立てを立てることができるだろう。

 

選択理論を学び、自分の上質世界を拡げて、健全なさまざまな願望を見える化し、自分の欲求充足を、様々な場面で、他の人々の欲求充足とのバランスを取りながら、図っていけることが、「いじめ」などに対する予防となり、また、いじめられた場合の有力な対処法の一つとなろう。

 

また、そのような、選択理論・RTを身に付けた、自立した人であれば、いじめられる対象とされることも少ないのではないかと考える。